【旧連山コラム】遅すぎたポツダム宣言受諾

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本コラムは、【連山】に 2007年09月05日に投稿したコラムです。

 

【旧連山コラム】遅すぎたポツダム宣言受諾
橘みゆき 2007年09月05日

 

7月末に降伏していれば原爆投下もソ連参戦もなかった

ポツダム宣言は、1945年(昭和20年)7月26日のポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言である。
日本がポツダム宣言を受諾するのは、8月14日の御前会議である。
8月15日、玉音放送により、国民と陸軍、海軍に対して、ポツダム宣言の受諾と戦争の終結が伝えられた。

7月26日から8月15日までの3週間、広島と長崎への原爆投下、ソ連の満州国侵攻、満州国にいた人達の犠牲、日本各地への空襲、戦場での戦闘による犠牲者が多数出ました(沖縄での戦闘は7月2日にアメリカ軍の終結宣言が出されている)。

 

無差別爆撃により日本の主要都市は焦土と化した

1944年(昭和19年)6月16日、北九州の製鉄所を目標とした空襲をはじめ、九州地方を中心にアメリカ軍による空襲が行われたものの、支那の空港からであったため、他の地域は空襲から逃れていた。
日本各地で空襲が本格化したのは、マリアナ諸島が陥落し、アメリカ軍が空港を整備した1944年11月以降である。

1944年6月19日から20日にかけて、絶対国防圏の要であるマリアナ諸島を死守するため、連合艦隊は総力を挙げてマリアナ沖海戦に臨んだが、主力艦隊を失い惨敗した。
アメリカ軍のサイパン島への上陸を阻止できなかった。
1944年7月9日、マリアナ諸島のサイパン島が陥落。
テニアン島が陥落したのは8月3日、グアム島は8月10日に陥落した。
アメリカ軍はマリアナ諸島に空港を建設し、戦略爆撃機B29を集めた。
マリアナ諸島から出撃したB29は本州全域が爆撃可能であった。

「日本の家は木と紙でてきているから、よく燃えるはずだ」という意見から、1945年3月10日の東京大空襲をはじめとする大都市を標的とした無差別爆撃が行われた。
6月になると中小都市も空襲され、日本の主要都市の大半が焦土と化した。

 

戦争継続のため、大陸に拠点を移そうとした

東京大空襲以後、日本各地が焦土と化す中、満州国は被害が比較的少なかった。
ソ連は1941年(昭和16年)に結んだ日ソ中立条約により、戦闘状態にはなっていなかった。
そのため、生産拠点を満州国へ移そうとする動きが見られた。
空襲が激しくなると、大勢の人が大陸へ渡りました。
当時の新聞は戦争遂行する立場でしたから、新聞に書いてあることを素直に信じてしまったのかもしれない。
日本国内に残っていればよかったのだが、うっかり大陸に行ってしまったため、満蒙開拓団として満州国に住んでいた人達と同様、ソ連参戦によって、大勢の人が命を失った。

 

ソ連の中立条約破棄を見抜けなかった悲劇

中華民国の蒋介石は、1944年7月9日のサイパン島陥落を知って、日本の敗北を悟ったというが、ソ連のスターリンも日本敗北を予測していた。
負ける国にいつまでもつきあっていては不利になる。

1945年2月、クリミア半島のヤルタで行われたヤルタ会談にて、アメリカ、イギリス、ロシアの主要三カ国の首脳が第二次大戦後の処理についてヤルタ協定を結んだ。
この時、ドイツが降伏してから2~3ヶ月後にソ連が日本との戦争に参戦することが秘密協定としてまとめられた。
これを受け、1945年4月5日、ソ連は日ソ中立条約の更新をしない旨を日本に通告した。
日ソ中立条約は、期間満了の1年前までに廃棄通告がなされた場合に終了することが第3条に記されてるが、途中での破棄に関する規定はなかった。

8月8日深夜に日ソ中立条約の破棄を宣言し、8月9日午前零時に満州国や南樺太への侵攻を開始した。
日本は戦争終了のための交渉をソ連に和平工作を依頼していた。
秘密協定の存在を知っていたら、イギリスかスイスに和平工作を依頼していただろう。

1945年7月26日、ポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言であるポツダム宣言を発表した。
日本は国体護持についてポツダム宣言が言及していなかったことと、ソ連への和平工作に対する返答を待つため、ポツダム宣言を黙殺した。
日本が「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定したのは、ソ連対日参戦と広島・長崎への原爆投下という事態を迎えた後に開かれた8月9日の御前会議であった。
不確かな希望にすがった結果、大勢の人が犠牲となったのである。

 

和平工作をするには相手を選ぼう

1945年7月16日、世界で初めて原爆実験を実施したアメリカは、唯一の核保有国となった。
ヤルタ会談後のアメリカはソ連の対日参戦がなくても日本に勝利できると予想し、ソ連の戦争参加を避ける方法を模索していた。
第二次大戦が終わると、新たな戦いが始まる。昨日の友は明日の敵というわけで、ソ連に対する警戒を高めていたためである。
原爆の実戦投入はソ連に対する牽制として強力なカードであった。
日本は和平工作を依頼する相手を間違えた。
ソ連ではなく、アメリカに対して一定の影響力を持つイギリスかスイスにすべきであった。
歴史にifは禁物であるが、8月6日以前にポツダム宣言を受諾し、アメリカとの和平が成立していれば、広島・長崎の原爆投下とソ連の対日参戦に伴う満蒙開拓団を始めとする満州国や南樺太の人達の犠牲を避けることが可能であっただろう。

橘みゆき 拝

Neo-Generation.NETへ再掲載:2009/08/02 橘みゆき 拝

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